北炭清水沢炭鉱は、閉山から40年ほどが経過した現在でも、鉱事務所・坑口密閉跡・ズリ山が現存しているほか、遺構はないものの輸車路跡・選炭場跡が空き地のまま利用されておらず、専用線跡の場所もわかりやすく、石炭が掘り出されてから産出されるルートを、出荷される清水沢駅までそのまま歩いてたどることができます。
戦後に開鉱した炭鉱であること、規模が小さかったため炭鉱施設がコンパクトに集約されていることから、炭鉱のシステム大変わかりやすく理解することができます。
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北炭清水沢炭鉱事務所
1947(昭和22)年開鉱。1944(昭和19)年に開鉱した遠幌鉱と1952(昭和27)年に合併した。近代的な設備を整え、北炭のホープと位置づけられた。生産量は平均して年産40万トンほど、従業員数は1000人弱の中堅炭鉱。7800カロリーの原料炭を生産した。1980(昭和55)年に終掘のため閉山。多くの従業員が夕張新鉱に異動した。
現在は民間企業が使用している。鉄骨を使った堅牢な佇まいが特徴的。
※ご見学は清水沢プロジェクトで承ります。直接企業へのお問い合わせはご遠慮ください。
安全灯室
事務室に隣接して現存している安全灯室は、坑内で使用するキャップランプを充電、保管する施設。現存しないがその両隣に坑口浴場とトイレがあった。
※ご見学は清水沢プロジェクトで承ります。直接企業へのお問い合わせはご遠慮ください。
坑口
坑名は清水沢坑。平安八尺層・十尺層で稼行した。運搬卸斜坑、ベルト卸斜坑、坑内員入出坑用の立坑密閉跡が現存する。
安全灯室でキャップランプを受け取った鉱員は、道路を横断し、大夕張鉄道の踏切を渡り、輸車路の丘橋を越え、この場所にあった捜検所を通り、立坑から入出坑した。石炭はベルトコンベアで坑内から搬出し、原炭ポケットから炭車に詰め替えた。
※北海道企業局の敷地内のため、許可なく近づくことはできません。春先、秋は国道452号線から見ることができます。
輸車路
坑内から搬出された石炭を輸送していた屋根付きの専用線。炭車に積み込まれた石炭を、電気機関車が選炭場へと牽引した。
ドンベーズ球場横の歩道がそのまま輸車路で、道路をまたいだ先が選炭場。
※跡地を歩いてたどることができます。
選炭場
精炭能力1300トン/日で、昭和29年の完成当初は「東洋一」とも呼ばれた。ブラッドフォードブレーカーで破砕し、バウム水選機により選炭し、製品として出荷する精炭と不要な岩石(ズリ)に分けた。精炭は専用線で清水沢駅へ輸送され、(現在の憩団地駐車場部分、消防署と光団地の間が専用線の跡)ズリはズリ山に積み上げられた。
※跡地を外観から見学できます。
旧清水沢駅
1897(明治30)年北海道炭礦鉄道夕張線の駅として開業。1911(明治44)年に大夕張炭鉱の専用鉄道(清水沢―二股/のちの南大夕張)が開通した。(1929年北部延伸、1939年地方鉄道に改組。)
1947(昭和22)年、大夕張線が清水沢まで旅客乗り入れ開始し、石炭・旅客輸送の要となった。現駅舎は1956(昭和31)年に建築。 1987(昭和62)年に大夕張線廃止。2004(平成16)年、交換設備廃止。北海道で最後まで腕木式信号機が残った駅だった。2015(平成27)年には無人化された。
2017(平成29)年には開業120周年を迎えた。
2019(平成31)年4月1日、石勝線夕張支線廃止に伴い、廃止。
清水沢ズリ山
ズリ山とは、炭鉱で採炭した石炭を、選炭工場で製品として生産する石炭と不要な岩石とに選別し、その不要な岩石を捨てるために積み上げた山のことで、いわば炭鉱まちのシンボルと言える。
清水沢炭鉱のズリ山は3つあり、この初代ズリ山が最も大きく、高低差は60mほど。選炭能力が高かったため、利用できるような石炭はほとんど見られない。もともと農地だった平地に積み上げられたため、頂上からは清水沢ダム、旧北炭清水沢火力発電所、90度蛇行する夕張川、清陵町、そして宮前町と清栄町が一望できる。
※歩いて登ることができます。詳しくはこちら
古い写真の提供:夕張市、庄子喜隆氏、高橋智敏氏
宮前町浴場
昭和40年代後半の宮前町コンクリートブロック造鉱員住宅新造に合わせて北炭が昭和45年に整備した地区浴場で、現在は市営浴場。女湯のほうが大きいのは炭鉱の地区浴場の特徴。あまりに大きすぎるため、浴室の一部を塞いで狭くしているが、脱衣場や靴箱にその面影を見ることができる。
市営住宅の集約により浴室付きの住宅が増えたが、地域のコミュニティの中心として、昔も今も大切な役割を果たしている。
一般入浴も可能。営業は月・水・金 15:30〜20:00 入浴料大人450円。洗面器はあるが、タオルや石鹸は用意が必要(清水沢コミュニティゲートで貸し出しできます)