活動日誌| 3月6日 旭小学校(パート1)
嬉しいことに毎日取材させていただいています。
卒業生は「〇〇の〇〇さん、確か〇〇小学校だった気がする〜」といったように人伝てに探しています。
なので最近、頻繁に小学校はどこかと聞かれる場面に出くわしたら確実に私たちが黒幕です。笑
決して悪いことをしているわけではないので、逃げも隠れもせずに常に堂々と(時にはふてぶてしいのかもしれない…)しています。笑
さて、今日は旭小学校の取材パート1です!
旭小学校は1975年に丁未、福住、夕張第二小学校が統廃合したことで開校しました。そして8年後の1983年に閉校しています。
8年間しか存在していなかったので、1年生から6年生までフルで旭小学校だった人というのは3学年しかありません。
28校もある小学校の中で卒業生を見つけるのか難しい“三大巨頭“と言われている(私たちが勝手に言っている)小学校の一つでした。
通常、取材対象は“校歌を歌える小学校の卒業生“ですが、旭小学校の作品は最後の6年生、6名を送り出した古城先生と第一回目の卒業生の2部構成で行います。
古城先生から大変貴重な当時の旭小学校最後の卒業式のVHSもお借りしたので内容がさらに深くなる予定です。
前回古城先生にお話を伺ったときの記事はこちら
「旭小学校の最後の1年間は今までにないくらい感動的な1年だった」
夕張のいろいろな小学校で教鞭をとられた中でも一番児童生徒数が少ない学校でいろいろ問題のある学級。生徒と対話を繰り返すことで問題を解決していく日々。
中でもいじめ問題は深刻だったようで、問題を解決するために先生がほぼ毎日「一枚文集」と名付けたクラスで何があったかを綴ったプリントの中で生徒の声も交えていじめに触れたそうです。それがきっかけで両親がいじめの事実を知り、解決に向かったそうです。
閉山の影響で夕張駅にあった選炭場が解体されていた時期で、夏場はうるさくて窓を開けていられなかったそうです。
多い時では数名から二桁に近い人数が転校する日々、その度に残った生徒たちの失望を先生は強く感じたそうです。
先生は旭小学校で初めて伴奏を任されました。
赴任してから入学式までの7日間ほどで伴奏をマスターしなくてはならず、毎日猛特訓したそうです。
ご自宅に楽譜があったのでなんと、先生に弾いてもらいました。感動。
先生は現在のゆうばり小学校校歌の作詞もされています。
校歌の作成に直接携わった方にお話を聞くことができてこれまた感動。
校舎の周りを歩きながらどんな歌詞にしようかと考えたそうです。
まずは側にある夕張川は必ず入れることと、「学ぶ」「楽しい」という要素を入れて詩を考えたと伺いました。
近況報告的に「やー旧校歌も浮上しまして」と話していると「鹿の谷小学校の楽譜付きの旧校歌を持っていたはず…」と。
楽譜は見つけられませんでしたが、旧校歌について大きな前進!
小学校は28校でしたが、校歌は28個とは限らないという新事実…! まだまだ頑張ります。
古城先生、ご協力ありがとうございました!
共催 一般社団法人清水沢プロジェクト
助成 公益財団法人朝日新聞文化財団 公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
(文章・写真/菊池史子)